三田渡の屈辱
三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。
政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。
しかしこれらの朱子学は逆に党争をかき立て、政治を混乱に巻き込んでいってしまった。
一方経済政策では、経済が破綻したため崩壊しかけていた貨幣経済の立て直しを図る事になる。
貨幣の材料である銅を日本に依存していた為、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていたが、仁祖は、貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとした。
しかし、後の2つの胡乱などで思うように進まなかった。
再び充分な量の貨幣が流通し出すのは1678年の粛宗の時代に入ってからになる。
次代の孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、北伐論が持ち上がり、軍備の増強が進められた。
しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。
この時期、ロシアが満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣している。
政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。
しかしこれらの朱子学は逆に党争をかき立て、政治を混乱に巻き込んでいってしまった。
一方経済政策では、経済が破綻したため崩壊しかけていた貨幣経済の立て直しを図る事になる。
貨幣の材料である銅を日本に依存していた為、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていたが、仁祖は、貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとした。
しかし、後の2つの胡乱などで思うように進まなかった。
再び充分な量の貨幣が流通し出すのは1678年の粛宗の時代に入ってからになる。
次代の孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、北伐論が持ち上がり、軍備の増強が進められた。
しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。
この時期、ロシアが満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣している。
update:2010年02月22日
